他の職人と同じことを拒み、
藤田が手に入れた武器。
伝統工芸士・藤田瑞古は広島で生まれる。家業は京焼・清水焼の工房を営んでいるというわけではなく、高校卒業後の進路も金融関係の会社に内定をもらっていた。しかし、祖母から手に職を付けた方がいいと言われ、高校三年の夏休みに祖母の兄弟が営む京都の陶器屋でアルバイトをしたことを思い出した。その時のものづくりの体験が藤田の人生に影響を与えていたのだ。そのような経緯を経て職人の道を歩む。彼はそこから44歳に独立するまで26年もの間、いわゆる「サラリーマン職人」。通常、職人が独り立ちするのは10年と言われている中で。しかし、彼には彼の考え、そして職人として生きていくための戦略があった。
まず、藤田は誰よりも早く一人前として認められようと考えた。そのときに意識したのが「時間」。無駄に時間を使わずに、いかに自分の技術を高められるかを意識して日々を過ごした。通常、習得に1年かかることを半年で自分のものにしてきた。「そのためには人と同じようにしてはいけない」。1ヵ月の中で3時間しか寝ない日も何日もあった。他の職人が遊んでいる時、一昼夜仕事をした日もあった。そして効率よく仕事をする方法を考えた。ちょっとの差を積み重ねると膨大な時間が生まれる。その時間をどう有効に使うかが大事。「ある先輩の職人に言われたけど、時間だけは貧乏人でも金持ちでも平等」と藤田は語る。修業時代の時間の使い方は、現在の彼の仕事の仕方にも息づいている。工房の使い方一つとっても他との競争に勝つための仕掛けを施している。実際、藤田の工房は小さい。が、非常に効率的である。行程に必要な道具や材料は、彼の手に届く所に全て配置されている。「物を取りにいく時に毎回3歩動くとするやろ。その3歩が蓄積されて結構な時間のロスになる。だから工房は小さいと勝手が利きやすい」。職人にとって大切なことは数をこなすこと、そしてそのために仕事を早くすること。彼は効率良く仕事をする上で「段取り8分、仕事2分」ということを常に意識して、時間と上手く付き合ってきた。
さらに藤田が職人として生きていくためにもう一つ考えたことは、「幅広い対応」。藤田はお猪口のような小さい器から、食器のような大きい器まで何でも受注できる自信がつくまで独立はやめようと考えた。このこともまた、人と同じことをしてはいけないと考えた上のこと。藤田は語る。「通常は10年修行を積んだら独立。普通の人に比べたら随分遅れてしまった。けど、今思えばそれが功を奏した。色んな仕事に対応できることで、あいつにまかせれば、大丈夫やと思ってもらえる」。藤田は他の職人と違う自分の武器を手に入れたことで独自性を出すことができ、今でも多くの仕事の依頼が舞い込んでくる。
実は、藤田は40歳の頃に独立しようと考えていたが、断念した。もう少しだけ時間が必要だと感じ、数年間さらに自分を高めた。そして、44歳に独立を果たす。藤田は仕事を取り組む姿勢をこう喩える。「僕なんてマグロと一緒。ずーっと泳いでますよ。止まったら終わりやと思う」。藤田はこれからも猛烈に器と向き合っていく。
足すこと、そして引くことで
器の可能性を広げる。
藤田は京焼・清水焼に惚れ込んでいる。その形は日本の器の完成形であると語る。京焼・清水焼だけではなく、それ以外の日本の焼物、急須、土瓶、さらに洋物の器など、現在に伝わる器は全て完成形ではないかと考えているらしい。それは、造形美はもちろん、生活の中で活躍する道具としての機能美も備え持つ器の形として。
京焼・清水焼もおよそ350年という長い歴史を持つ。その長い年数、数多の職人たちが新たな形を生み出そうと試行錯誤を繰り返したが、誰もが失敗に終わった。つまり完成形。藤田は京焼・清水焼の形の完璧さに敬意を表し、2つのことを意識して器作りに取り組んでいる。1つは、パッと見た時に京都の雅、優美さ、繊細さをイメージさせること。もう1つは、料理の邪魔にならないようなデザインを心がけること。
藤田は器と料理の関係についてこう考える。「食べもんが主人公であり、食器はそれを助けるもん。食べ物に勝ったらあかんというのが基本」。
京焼・清水焼は京都を象徴する器という側面を持ちながら、料理を盛る時は引き立て役になるという側面も持つ。藤田は造形美と機能美が込められた器の形はこれ以上変えることができないと思いつつも、常に考えていることがある。「今ある器の形に足してみたらどうだろう、もしくは引いてみたらどうだろう」、と。そこに工夫の余地がある。藤田の技術と「足し引き」の考えを用いて作った物の1つに「コーヒー皿」がある。通常、コーヒー皿は皿の上に置くカップが倒れないように溝を施している。しかし、藤田は皿の溝をなくすことでコーヒー皿だけではなく、「ケーキ皿」としても使えるという用途を加えた。
藤田のこれらの新たな取り組みについて、そして伝統についてこう語る。「自分が受け継いだ技術や知識を取り入れて、現代に通じるものを作ることが伝統やと思っています」。例えば、江戸時代に活躍した器の絵師・尾形乾山。彼は着物の柄を器に取り入れたが、当時、その手法は亜流だった。しかし、時間が流れ亜流は、いつしか本流になり、当時を生きた人々が求める物となった。「今の歳になったからこそ言えることやけど、今の時代に合ったもんを作り続ければ、それが次第に次の時代の形になっていくと思う」。伝統とは、次の伝統を作ること。藤田は、京焼・清水焼の伝統を真摯に受け継ぎ、「次の形」を作っている。
藤田の技がもたらす
手に持った時の驚き。
京焼・清水焼は、「目」で愉しむ、料理を引き立て「舌」で愉しむ、そして手に取った時に「肌」で愉しめるのが醍醐味。藤田が作る器は思った以上に軽く、思った以上に手になじむのだ。特に、彼が作る器の薄さを生み出す高いろくろ技術には定評がある。
京焼・清水焼の価値基準の1つとして、「薄さと軽さ」が挙げられる。藤田は薄さと軽さの評価についてこう推論する。「京都は公家文化。力仕事しないお公家さんで、しかも女性は重い器を求めなかった。だから、手の中にはんなりと収まる軽くて薄い器を求めたのではないか」、と。
実際に藤田が作る薄作りの器は、光にかざすと柄が透けるくらい薄い。その薄さを実現する技術も並大抵ではない。器を焼く直前、器の形を整える最終段階。ろくろを回しながら、0.1mm単位の精度で器を鉋(かんな)がけしていく。彼は自分の親指で鉋がぶれないよう固定し、器の厚みを強度が保てるぎりぎりまで薄くしていく。その時に、大事なのは生地を削る音。薄さが極限まで近付くと削る音が微妙に変化するらしい。藤田は聴き耳を立て、その瞬間まで器を削る。一般の人には聞き分けられないが、数千回ろくろを回せば誰でも分かると語る。
藤田は「手に持った時に驚いて欲しい」と言う。藤田の器は体感するものである。彼の確かな技術で作られた器は、触れた者の感覚に訴えかけてくるのだ。